キリスト教的に考えるなら、「親(ちか)しい人間の死を乗り越えられるはず」と思われた承太郎と、「世界を救うための犠牲になることを厭わない」と思われた花京院。出逢いは必然と言うわけなのか。承太郎は、その辺りも含めて、「世界も神もクソッタレ。誰が信じるか」という辺りへ気持ちが落ち着いてもおかしくはないよなあと思う。承太郎には、花京院が、欲しいと必要の両方なんだと思う。どっちだけでもない。両方。花京院は、欲しいかなあと思う。必要はない。でも欲しい。案外と花京院の方が、孤独には耐性が強いように思えるので、必要ではない。でも欲しい。花京院は承太郎が欲しい。承太郎は、必要だから欲しいのではなくて、欲しいから必要なのではなくて、花京院が欲しくて、花京院が必要。ふたつは別々に存在してる気持ちだといいなあと思う。承太郎が海を求めるのは、孤独を求めてるんだろうし、孤独を求めるのは、孤独ではないからだ。求めなくても孤独である花京院と、求めないと孤独になれない承太郎と、そういうわけで世界の果てでイチャラブってろ。
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