新は79年なので、009が始まってからすでに10年経ってて作品としては充分成熟してた段階なわけで、御大があの時にもう「サイボーグは武器であり、(作品内では)平和を実現させるための手段だが、平和が実現してしまった暁には世界に不要どころか逆に脅威を与え続ける存在になる(つまりRE世界)」と言う「戦鬼」である彼らの存在のやるせなさを前面に出しててもおかしくはないわけで。こいつは新は平の後に初めて見たので、あの頃のアニメは真っ直ぐ正義の味方だなあって安心しながら見れたんだけど、今になって、いやそんなやるせない事情背負ってる自覚持ちで正義の味方やるとかどんな苦行だよ、と思った。新のジョーと言うキャラがそこまで自覚してたかどうかは分からないけど、REのジョーはその自覚前提であのキャラと世界観だよね。こいつにとっては多分、新とボトムズはリンクしてる物語なんだと思う。新で描き切れなかった「神との戦い」(そして原作でも描き切れてはいないまま)に対する、監督なりに描き切ってみた答えが高橋監督のボトムズなんだと思う。ボトムズで、イプシロンがやたらと戦場に出たがるけど(キリコと決着つけるため→フィアナを完全に自分のものと自覚するため)、あれは正しく武器である自分の存在意義の表現なんだろうな。つまりはサイボーグであるイプシロンが、武器であることをまるっと受け入れて、でも結局キリコには勝てずに、そのキリコは神に背いて完全武装解除して世界から逃げ出す、と言うボトムズの結論は、高橋監督の、新に失望しまくったと公言してた御大に対する答えなような気がする。新への失望は、主にはアニメーション表現に対するものだったみたいだけど、やっぱり神と言う存在が御大の思うようには描き切れない、と言うことに対する鬱憤(自身も持て余してたに違いない、と言う辺りで単なる八つ当たりにも見える)も相当あったんじゃないかなあと。色々頭の中でぐるぐるして、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」とか「武器よさらば」とかそんな辺りへもちょっと飛んでみたり。ボトムズは完全にいろんな映画のオマージュだし、どう見ても手塚だろこれみたいなのも山ほど出て来るんだけど、素地部分に、相当009に影響された部分もあるんじゃないかなと思ったり思ったり。まああの時代で、手塚石森辺りに影響受けてない作品はないと思うけど、こいつの中では新とボトムズはほとんど直結なんだよなあ。って言うか、新見てボトムズ見ると、ボトムズがああなった、ボトムズと言う作品がああいう形と結論で世に出たと言う理由がよく分かると言うか。っつか、ボトムズ見ると、石森御大と手塚氏の、神と言う存在に対するスタンスの違いがよく分かるって言うかさー。言うなればクリエイターとしては手塚氏の孫くらいの存在の高橋監督がああいう形で石森作品と繋がったって言うのは、あの頃だと業界が今よりもっと狭かったろうし、関わる人の数も少なかったろうからさして深い意味はなかったとしても、結果として、何かすごいもの生まれちゃったよみたいな。こいつにとっては、(新)009抜きではボトムズは語れないと言うのか。まあ何だ、「誰がために」と「炎のさだめ」と「鉄のララバイ」はほんっと名曲だよねって言いたいだけなのかもしれないうん。
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