円地文子を再読中なんだけど、こいつはこの人の作品に出会ったのはごくごく最近で、引用しまくりの会話とか、何だこの現代紫式部って思ったんだけど、教養ってのは基本はそういうもので、的確なタイミングで的確な引用をする、と言う、決して見せびらかしじゃない、そういうのは昔は当たり前だったんだよなって思ったら、グレートさんのシェイクスピア引用とか、ハインさんの例の小説の引用とか、あれはごくごく普通の振る舞いなんだよなー知識人とか教養の高い人として。で、ボトムズも、ニーチェとかシェイクスピアとか、その他もろもろの引用(ようするにオマージュ)がすごいのも、ある意味当然の作品の組み立てと言うか、作品全体に漂う妙な文学臭(しかも純文学)は、ごく当然だって突然気づいた。今まで、あれは全部吉川御大の趣味だと思ってたけど、そうじゃなくて、あの世代の人たちで、趣味を極めてた人たちとしてはごく当たり前のことなんだよなあ。そういう意味で、ただのAT乗りのキリコが、「神は死んだはずだ」って言うのは、あの中ではもちろん引用として扱われてるわけじゃないので、あの世界観での、市井の人の知識レベルを推測できる材料なわけじゃないけど、あそこで、キリコ(ボトムズ世界では、最底辺にいるとされる存在)に、ああいう台詞を言わせる、と言う、そういう、制作陣が作り上げた世界の空気に、こいつはすごいシビレる。衒学的ではない、ほんとに「的確なタイミングでの的確な引用」である、オマージュ。相手が分かると思った上での、的確な引用。そういう、精神性の高い空気がたまらん。
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